村岡城址紹介

村岡城跡

妙法寺 村岡城址

風間信濃守信昭~本山妙法寺を開基した武将~

妙法寺ゆるキャラのぶ殿

妙法寺ゆるキャラ
のぶ殿

南北朝時代越後新田義貞軍の巨頭として活躍した風間信濃守は直峰城(上越市安塚区)を拠点としました。風間氏は信濃国水内郡内社風間神社の出身で、越後に進出してきたと思われます。風間氏の越後進出は、鎌倉時代末期のことです。風間信濃守は、鎌倉勤番の際、鎌倉那瀬(名瀬)の日昭上人に師事し、深く日蓮宗に帰依しました。日昭上人から「昭」の一字を賜り「信昭」としたとされています。越後の妙法寺(和島地域村田)も元亨3年(1323)風間信濃守によって建立されました。開山が日昭、二世が信濃守の弟日成、三世が信濃守の実子日蓮と寺伝にあります。初め現在の治暦寺の位置にありましたが、村岡城が廃城となってから、城跡の中腹にある現在地に移りました。治暦寺の裏山を廟山といいます。かつての妙法寺の墓地です。妙法寺二世日成以下歴代住職の墓、風間信濃守の墓、風間信濃守顕彰碑があります。

南北朝時代を今に伝える村岡城跡

◆遺構

 村岡城跡は妙法寺を取り巻いた馬蹄形状の尾根を巧みに利用して、郭や土塁、堀切などを造り出しています。地形や城郭の縄張りなどから「山王台」と俗称される主郭地区と「妙見山」の第二郭地区、それに治暦寺裏山に所在する俗称「廟山」の出郭地区の3つの地区に分けられます。 村岡城跡の特色は、中央部に位置する主郭を中心として、東側に突出した両尾根先端部に第二郭と出郭を配置していますが、いずれも基本的な縄張りは単郭式であるということです。それに規模も小さく、各々独立城郭としての機能を保持していません。つまり、この3地区が一体となって一城郭を形成していたものと考えられます。

◆城歴

村岡城は、南北朝時代に越後南朝方の武将として活躍した風間信濃守信昭の弟、村岡三郎(※)の居城です。風間氏は長峰城(上越市安塚区)を拠点としており、一族は鎌倉時代の末ころまでに、西古志地方の要地であった島崎川流域に進出していたものと推定できますが、これを具体的に示す史料はありません。本城は南北朝期山城として把握されることや周辺に残されている風間信濃守と村岡三郎に関係した多くの遺跡、元亨3年(1323)に信濃守によって創建されたという日蓮宗妙法寺の存在、南北朝時代の風間氏の動向を示す豊富な史料などから、南北朝時代の初め頃に、風間信濃守や村岡三郎らの風間一族によって築城されたものと考えられます。

※村岡三郎

村岡城主村岡三郎は、風間信濃守信昭の弟でした。越後妙法寺駅の近くに蓮念寺があります。蓮念寺は風間守の弟の村岡三郎の菩提を弔うために建立されたものです。蓮念寺には三郎と妻の過去帳があります。村岡三郎はつねに風間信濃守と軍事行動を共にしました。村岡城を築いて和島地域周辺を領し、信濃守に代わって妙法寺の檀那となりました。