妙法寺の歴史

第六十四世 小林日元貫主

平成21年4月26日(日)、午後12時ホラ貝で時が知らされ花火の音とともに行列が­総門を出発いたしました。赤門より30名のお稚児様・和讃方が合流、錫杖、旗、総代様­方、太鼓20名、式衆、参与、貫主、兄弟弟子、団信徒、太鼓お題目にて行列が開始いた­しました。黒門を過ぎ、貫主は御駕籠にて昇堂、2時間にわたる法要が執り行われました­。

貫主よりご挨拶

本山村田妙法寺 小林日元貫主

本山村田妙法寺 小林日元貫主

平成21年4月26日(日)に第六十四世として法灯継承させていただきました。 700年の歴史をもつ本山妙法寺。文永8年10月に風間信昭公の領地より、佐渡に流された日蓮様への思いは、いかばかりかと偲ばれます。信昭公の弟の村岡三郎氏の城を日蓮上人の一番弟子の日昭上人に寄進し、本山としたのも日蓮様が佐渡に流罪と成る時に自分の領地から流された事への大縁を感じていたのだと思います。その風間信昭公と日昭上人の思いを700年後の今にいかに伝えていくか、微力ですが頑張っていきます。どうぞご参詣をお願い致します。

本山村田妙法寺 小林日元

妙法寺のあゆみ

村岡城跡 新潟県の中央部長岡の西北に流れる信濃川の川岸流域、大河津分水路に近い、長岡市村田にある法王山妙法寺は、徳治元年(一三〇六)に大成弁阿闍梨日昭上人を開祖として信昭公によって開創されました。  日昭上人は、六老僧の一人で承久三年(一二二一)に下総(千葉県)に生まれました。師である日蓮聖人より一歳年上で、嘉禎元年(一二三五)十五歳で出家し、成弁と称しました。その後比叡山にのぼり天台の教観を修学しました。日蓮聖人との出会いはこの比叡山ではなかったかと推察されます。日蓮聖人が建長五年(一二五三)に立教開宗した後、清澄を下りて鎌倉在住の頃、その学徳を慕って膝下に参じ、師弟の契りを結んだといわれます。日蓮聖人は日昭上人を弁殿と呼び、もし自身が法人に倒れたなら、自分に代わって教団を指導する人物とみなしていたといわれます。以後日蓮聖人の生前歿後にわたり鎌倉で教えを広め、元享三年(一三二三)百三歳で入寂しました。  妙法寺の開基檀越は当時の信越両国の大守・風間信濃守信昭公ですが、信昭公は幼い時、鎌倉にて日昭上人の教えにふれ、その法力によって長寿を保ちこれが縁となって日昭上人の一字をもらって、信昭と号したといわれます。以来、信昭公は日昭上人の外護者となり、上人のために浜土に法華寺を創り、また宗祖第二十五回忌にあたり、相州・名瀬に妙法寺を開きましたが、北越の地に法華の道場がないこと憂い、日昭上人を開祖として名瀬の寺を村田に移して北陸道における仏法興隆をはかりました。これが法王山・妙法寺となりました。以後これによって風間氏が寺領三百五十石を附し、一宗の本山たる寺格を整えました。

妙法寺の歴史 この開基檀越である信濃守信昭公が活躍した時代は、南北朝時代であります。建武の新政時代(一三三四)から新田義貞の戦死(一三三八)まで新田氏の部下として出陣しました。新田氏は、後醍醐天皇政権確立後、越後守として越後に入り越後武士を統率することになり、士豪であった信濃守は新田貞義の軍人に属し、転戦することとなりましたが、足利尊氏の反旗により下越地方の豪族は尊氏に呼応して立ち上り、越後の豪族は新田方と足利方とに分裂し抗争を展開することとなりました。両軍の戦いは熾烈を極めましたが、次第に南朝軍(新田氏)が劣勢となり、延元三年(一三三八)越前・藤島城を包囲した北朝軍(足利方)は、南朝軍を討ち破り、潰滅的打撃を与えました。これによって新田氏は歴史の手からころげ落ちることになり、南朝軍は主を失いました。妙法寺も開基檀越である信濃守の戦死などがあり、多大な影響を受けることとなりましたが、歴代住職の努力によって復興も進み、旧観を偲ぶに至りました。

妙法寺の歴史

◆徳治 元年(一三〇六)

六老僧大成弁阿闍梨日昭創立。 信越両国大守風間信濃守信昭、開基檀越。 元々、鎌倉名瀬(現在横浜市戸塚区)の妙法寺が旧跡。 信昭は鎌倉幕府在勤中に日昭の教科を受けて入信。 宗祖二十五回忌にあたり信昭は日昭開創とし、名瀬に妙法寺を開く。 しかし、信昭出生の北越の地に法華経の道場が無いことを憂い、日昭をかいそとして名瀬の妙法寺を村田に移し北越弘教の根本道場とした。 二世出羽阿闍梨日成は信昭の弟、三世円隆院日運は信昭の実子と伝えられる。十一世大乗院日弘の弟子にあたる十二世伝灯院日南は管領上杉憲政の子であるといわれる。 四十二世潮文院日逞は身延山五十五世を、四十六世不老院日仲は身延山六十四世を継いでいる。

◆天正一九年(一五九一)

一月六日に祝融の災に罹り、堂宇古記録の多くを失う。

◆慶長一八年(一六一三)

松平筑後守及び松平大隈守より書判及び制札を受ける。

◆慶安 元年(一六四八)

二月二十四日、将軍徳川家光より朱印地三十五石を寄付される。

◆寛文 七年(一六六七)

二〇世本妙院日鋭は、御題目唱えながら即身仏となられる。 久田妙本寺開祖

◆元禄十一年(一六九八)

堀式部少輔より書判制札を受領。

◆寛延 元年(一七四八)

村雲門跡より紫衣、大聖寺宮より乗輿を贈賜される。また、高辻少納言より緋紋白袈裟を寄せられる。

◆安永 五年(一七七六)

三十三世本理院日称の代に治歴寺付近より現在地に移る。

◆文化 五年(一八〇八)

三十七世信牙院日繚の代に二天門(赤門)建造する。

◆文政一三年(一八三〇)

四十二世潮文院日逞の代に七面宮建立される。

◆明治 元年(一八六八)

戊辰の役に際会し、黒門・赤門・七面堂を残し悉く灰燼と化した。

◆明治一七年(一八八四)

五十三世静養院日珠の代、末寺二十九ヶ寺と檀信徒と協力し、本堂・庫裡を再建。

◆明治四二年(一九〇九)

五十五世法雨院日貫の代に千仏堂建立 最近になって、土蔵作りの扉に、こて彫りが県内四例目とされる。 六十世統照院日立の代、昭和三十六年(一九六一)未曾有の台風により寺所有の山林の大部分が風倒木となったが、その中より良材を選び翌々年書院を増築。 また、旧末寺安全寺合併。 寺域全体が信昭舎弟村岡三郎の居城村岡城跡であることから、南朝忠臣としての両将の迫善を意図した。 七面宮は昔よりこの保内で護られてきたものであり、大祭もまた農作業に合わせ、正五九からずらし、一月六月十月に行い虫除け等の祈祷も担っている。 また、六月に入って水不足になると七面宮の下の池の中央にある甕に水を満たし、周囲に注連縄を張り、降雨祈祷を村人と共に一週間ほど籠もり祈ったのである。

◆現在六十三世行研院日城代、開山七百年慶讃事業

昭和六十二年十二月  本堂内陣整備を始め
平成元年三月完成
平成二年三月     千佛堂再興開眼
平成四年三月     駐車場造成
平成七年十一月    書院庫裡屋根瓦葺替
平成八年八月     黒門屋根修復
平成九年四月     地蔵堂改修開眼
平成十年十月     二天門改修 竹林伐採杉植林
平成一三年十月    風間信濃守信昭公を祀る報恩堂基礎工事始め、平成十四年七月完成。
平成十四年四月    二天門大屋根銅板張替え
平成十六年七月    集中豪雨災害で本堂裏山土砂崩れ発生。本山独自で水抜きボーリング工事を行い復興工事をお願いする。激甚災害に指定され、翌年地滑り防止工事完成
平成十八年三月    本堂回廊修繕
同年 八月    黒門屋根改修 その他数多くの事業がなされる。
同年 十月    開山七百年慶讃